すべての今治の歴史は、 海にある?!(前篇)
〜村上海賊と⼋⽊⻲三郎と塩⽥開発〜
⼤成経凡(おおなる つねひろ)
ONARU TSUNEHIRO
地域史研究家。今治市波⽅町⽣まれ。今治市・越智郡の中学校で社会科講師を約 1 年半勤めた後、愛媛県・愛媛県教育委員会の⽂化財調査事業などにかかわる。内航船員を1年余り経験し、海運業の経営にもかかわる。NPO 法⼈「能島の⾥」理事。平成 21 年、第 49 回久留島武彦⽂化賞受賞。令和2年、第 35 回愛媛出版⽂化⼤賞受賞。
今治といえば、海。今治市のサイクリングターミナル・サンライズ⽷⼭からの景⾊は、瀬⼾内海に来島海峡⼤橋がかかり、とても美しく⾒えます。
「この海はね、今治の発展にも深く関わってきたんですよ」
というのは、地域史研究家の⼤成経凡さん。2021 年 1 ⽉に NHK で放送されたブラタモリでも、裏⽅でご協⼒されたらしく、番組最後のクレジットにお名前が⼊ったという⽅です。
「僕は1年ほど実家が運営する海運会社の内航船員として働いたことがありましたが、そのとき海から歴史を⾒つめ直すことにより、もっと歴史観が広く深くなったんですね。だってすべての今治の歴史が海に関わってくるのですから」
すべての今治の歴史が? なんだか壮⼤な話ですが…。ちなみに⼤成さんは、歴史を学ぶためにわざわざ海運会社で働いたんでしょうか?
「いえ、本当はもう歴史をやめてちゃんと働こうとしたのですが、海から歴史を⾒つめることで、逆にやめられなくなってしまったんですよ(笑)。それで、今治の歴史を知るには、⾵⼟も知らなくちゃいけないと気づいたんです」
なんだかすごい⽅にお話を聞いてしまいました。では、今治の海は、具体的にはどういう⾵に今治の歴史と関わってきたのでしょうか。
海のビジネスマン 村上海賊
「今治の海の特徴は、ご存知の通り、激しい潮流なんですよ。その潮流を制するには⽔先案内⼈が必要だった。そこで活躍したのが、村上海賊です」(⼤成さん)
村上海賊は、今治の歴史の登場キャラクターのなかでも有名で、南北朝期頃から、荷物を乗せたり、⼈を乗せたり、⽂化や情報を乗せたりという、海運業を担ってきました。今治市宮窪町には、村上海賊ミュージアムもありますし、『村上海賊の娘』という⼩説や漫画にもなっています。海賊というと、少し怖いイメージもありますが…。
村上海賊ミュージアム。村上海賊の貴重な⽂献や出⼟品が展⽰されている。
「海賊というと、海外のパイレーツ、つまり海の盗賊のようなイメージがありますが、それは明治時代に悪いイメージに翻訳されてしまったんですよ。本来、海賊は海賊と呼ばれていたんですが、明治から昭和初期にかけての歴史解釈で、近代海軍の前⾝という⾒⽅が強かったため『村上⽔軍』と呼ばれてきました。でも⽔軍というと、海軍、ネイビーじゃないですか。じゃあ彼らがいつも戦争をしていたかというと、そんなわけないんですね。彼らの活動は軍事にとどまるわけではない。それでここ数年、当時呼ばれていたとおり、海賊は海賊って呼んであげようよ、というふうに変わってきたんですね」
そういえば、村上海賊ミュージアムも、少し前まで『村上⽔軍博物館』だったのを、2020 年4⽉に改名しましたね。そういう訳だったんですか。
「今治の海賊は、海のビジネスマンだと思わないと、正確には捉えられないですね。あの⼈たちは、お⾦で雇われた傭兵なんですよ。船と兵をチャーターしたり、⽔先案内をやったり、とにかく海に関することはなんでもするというのが村上海賊でした。当時、政府が航海安全を保証できていなかった代わりに、私的な組織が安全な航海を保証するしかなかったんです。そしてギャランティーをもらっていました。海賊だから⾦取ってたんだろうという⼈もいますが、働いてギャランティーを取るのは当たり前のことですよね」
「今治の渋沢栄⼀」⼋⽊⻲三郎のビジネス
そんな村上海賊は、今治の「塩」の発展にも貢献したと⼤成さんは語ります。
「江⼾時代になると、海賊が仕えていた殿様(頭領)が今治からいなくなりました。そこで、海賊がエネルギーを発揮したのが、塩⽥開発でした」
遠浅で広い⼟地を確保できる瀬⼾内海沿岸は、塩⽥に向いていました。潮が引くと、沖の⽅に⼲潟が出てきます。その⼲潟の先に堤防を作り、その内側の低いところを塩⽥にしたのが、⼊浜塩⽥です。できた塩を売りに⾏ったり、燃料を運んだり、堤防を作るときに砂や⼟や⽯を運んだり、さまざまなものを運ぶのに、船が必要になる。それで操船技術や船を持っている海賊が必要とされたのです。
ミュージアムに展⽰されている村上海賊の船の模型。
ところが明治になると、⼊浜塩⽥が広がって、国内の8〜9割の塩は瀬⼾内海で作られるようになり、その結果、塩の⽣産価値が落ちて値段が下がっていきました。
「それで今治は多⾓産業に打って出るんです。その塩⽥の資産をもとにして、明治 35 年、波⽌浜に愛媛県最初の本格的な洋式造船所ができたんです。これがいまの新来島波⽌浜どっくです」
なるほど。それで今治で造船業が発展していったんですね!
「はい。そこで塩⽥経営者たちは、朝鮮半島やウラジオストクに売りに⾏く東アジア交易に活路を⾒い出すんですね。そして、⽇本で蟹⼯船のシステムを作り上げる⼋⽊⻲三郎が登場します」
蟹⼯船って、教科書なんかにも出てくるあの⼩説のあれですか?
「はい、⼩林多喜⼆さんの⼩説『蟹⼯船』でイメージできるあのシステムは、今治の⼈間が作り上げたんですよ」
従来、ウラジオストク近海で蟹を獲っていた時期は、⼩さい船で2ヶ⽉くらいタラバガニをとって終わっていました。しかし⼤正 13 年、⾃社の⼤型貨物船を⼤胆に改造し、ロシアのカムチャッカ半島の⻄海岸へ蟹を獲りに向かった⼋⽊⽒は、1 ⽇で1万匹のタラバガニを収穫し、4年間、⽇本⼀のカニ⽸詰製造量を誇ったのだとか。ちなみに、⼩説では少しブラック企業みたいな描かれ⽅をしていましたが、実際の蟹⼯船はそんなことはなかったそう。
「また、話は明治 20 年代半ばに戻りますが、⼋⽊⽒は⽇本で余っている塩をロシアに売りに⾏こうと、外航海運業を始めます。ところが、あまり売れない。それで、ロシアのニコライフスクで鮭・鱒が無尽蔵に獲れるところに⽬をつけて、⼤量の塩をそこへ運び、現地で鮭・鱒を買って塩漬けにするんですね。いわゆる新巻鮭です。それを函館まで持って⾏き、巨万の富を得るんですね。でもロシア⾰命後はそれができなくなって、蟹⼯船を始めるんです。その⼋⽊⽒が成功する過程で、銀⾏の頭取をしたり、ガス会社や鉄道会社をつくったりして、今治の渋沢栄⼀のようなことをしていくんですよ」
なるほど。そんな⼤⾦持ちが登場して、今治の経済がまわって⾏った。その始まりが、今治の海の塩だったということなんですね。
「ちなみにこの海事産業がなければ、今治タオルもここまで発展しなかったかもしれません ね」
ええ? それはどう⾔うことでしょう。後篇へ続きます!
『伊予が⽣んだ実業界の巨⼈ ⼋⽊龜三郎』⼤成 経凡
https://www.amazon.co.jp/dp/486037276X?tag=booklogjp-item22&linkCode=ogi&th=1&psc=1
村上海賊の娘(⼀)和⽥⻯
https://www.shinchosha.co.jp/book/134978/
(マンガ)村上海賊の娘1巻 吉⽥史朗/和⽥⻯
https://csbs.shogakukan.co.jp/book?book_group_id=11404
『蟹⼯船・党⽣活者』⼩林多喜⼆
https://www.shinchosha.co.jp/book/108401/