2018.10.18 |前編|伊東豊雄氏×佐藤可士和氏トークセッション Vol.1|インタビューVol.5

もっと日本人に合う
建築やブランディングが
あると思う。

伊東豊雄氏 × 佐藤可士和氏

SPECIAL TALK SESSION

伊東豊雄 TOYO ITO
伊東豊雄建築設計事務所代表。 東京大学・東北大学・多摩美術大学・神戸芸術工科大学などの客員教授を歴任。

王立英国建築家協会(RIBA)ロイヤルゴールドメダル、プリツカ―建築賞、UIAゴールドメダル、日本建築学会賞など受賞歴多数。東日本大震災後、復興活動に精力的に取り組み、住民の憩いの場として提案した「みんなの家」は、2017年7月までに16軒完成。2016年の熊本地震に際してはくまもとアートポリスのコミッショナーとして「みんなの家のある仮設住宅」づくりを進め、100棟近くが整備されている。 2011年に私塾「伊東建築塾」を設立。また大三島において、2012年より塾生有志や地域の人々とともに継続的なまちづくりの活動に取り組んでいる。

佐藤可士和 KASHIWA SATO
SAMURAI代表。慶應義塾大学特別招聘教授、多摩美術大学客員教授。博報堂を経て「サムライ」設立。進化する視点と強力なビジュアル開発力によるトータルなクリエイションは多方面より高い評価を得ている。近年は文化庁・文化交流使を務めるなど、日本の優れた文化、伝統、ブランド、技術などを広く海外に発信することにも注力している。

今治タオルプロジェクトでは、ブランドマーク&ロゴデザインやオリジナルタオルのデザイン、今治タオル本店の空間デザインをはじめ、今治タオルのブランディング・プロデューサーとして参加。
対談が行われた今治市大三島の伊東豊雄建築ミュージアム

対談が行われた今治市大三島の今治市伊東豊雄建築ミュージアム

伊東さんと、
今治のお話がしたかったんです。

本日は、今治市大三島でさまざまなプロジェクトを展開されている伊東豊雄さん(IMABARI LIFEレポートVol.8参照)と、今治タオルのブランディング・プロデューサーである佐藤可士和さん(IMABARI LIFEインタビューVol.1参照)。ともに今治を盛り上げるおふたりにお話を伺います。よろしくお願いいたします。
佐藤可士和氏(以下、敬称略):念願の伊東さんとの対談です。よろしくお願いいたします。
伊東豊雄氏(以下、敬称略):こちらこそ光栄です。今治はどのぐらいの頻度でいらっしゃっているんですか。
佐藤可士和:昨年の春に今治タオル本店をリニューアルオープンしたので、その前後はよく来ていたんですが、最近はそれほどでもないんです。いまけっこう東京の方とコラボレーションしている案件も多いので、皆さんに来ていただいてうちの事務所で打ち合わせすることが多いですね。
お2人はNPO法人デザインアソシエーションの理事をなさっているつながりもあると伺いましたが、今治の話をされたりもするんですか?
伊東:それはないですね。
佐藤:もちろん伊東さんが今治で活動されていることは知っていて、ずっとお話聞きたいなと思ってはいたんですけれど、なかなかスケジュールが合わなかったり。
ではこれが初めてなんですね。伊東さん、大三島のプロジェクトを始められてから7年くらいですか?
伊東:まあ、本当はその前があるんですが、この今治市伊東豊雄建築ミュージアムが出来たのが2011年なので、そこから数えると7年ということになります。ちょうどその年に、東京でも伊東建築塾を作って。それから震災もあって。で、塾生たちとここへ来るようになったら、塾生のほうが先にこの島を気に入っちゃって。
佐藤:あ、そうなんですか。
伊東:僕はもう背中を押されるようにここへ来るようになって。だから塾生たちの方が早く島の人たちとも親しくなりましたね。
佐藤:塾生の方々が気に入ったのは、どういうところなんですか?
伊東:島の元気な人が何人かいて、だいたい農業をやっているんですけれども。そういう人たちと話をして、意気投合したって感じですかね。初期の塾生で、移住して、そういう方のお弟子さんになって、いま自分で畑をやっている人もいます。
それで伊東さんご自身も大三島にはまっていったのは、どういう経緯があったんでしょう?
伊東:直接は、3.11の東北の震災が大きかったですね。あそこで何度も津波の被災地へ行って、もう少し新しい街に貢献できるかなと思っていたんですけれども、なかなか難しくて。街の人たちとはけっこう打ち解けて仲良くなれるんですが、国や県の復興計画は、防潮堤など技術にばかり頼っていて自然と親しむ住民の暮らしを考えていない。そんなことがあって、大三島に来るようになっていたので、じゃあその震災の街で出来なかったことを、少しここでやってみようと思って。この5年ぐらいですかね、本気でここに来るようになったのは。
佐藤 :その最初が「みんなの家」だったんですか。
伊東:そうですね。空き家を一軒借りて、塾生たちが週末毎に来て、床を張り直したり、壁を塗ったりしてくれて。それが始まりでした。
「みんなの家」は、基本的には伊東さんが被災地で手がけられているプロジェクトなんだけど、この大三島だけは被災地ではないところで「みんなの家」という名がついているとお聞きしました。つまり被災地と気持ちがつながってるんですね。
伊東:そうです。東北の被災地でも、結局、出来たことは「みんなの家」だけでした。16軒。建築家の妹島和世さん達と一緒にやりましたね。 震災で実際に津波にあった人たちと話していると、都会の人とずいぶん違う。でもなかなか魅力があるのです、元気だし。特に震災があったりすると、心がひとつになるようなところがあるので。 それで大三島に来てみたら、やっぱりIターンで来て農業をやっているような人たちはなかなか魅力的で、独自の考え方を持っていて。そういうところが不思議とつながっていきましたね。
カフェや物々交換など、人が集まる場所になっている「大三島みんなの家」

カフェや物々交換など、人が集まる場所になっている「大三島みんなの家」

「すげえ」って建築をつくるのは、 もういいんじゃないかと思った。

佐藤:伊東さんはプリツカー建築賞(建築界のノーベル賞と言われる世界的な賞)を受賞されたことがきっかけで、ああいう空間的な建築は一区切りしてもう少し次のことを考えようと思われたと、メディアで拝見しました。そこでどういう建築観の変化があったのでしょうか? 視点の転換があったのですか、もしくは興味の対象が変わったのでしょうか?
伊東:はい。台湾で作っていたオペラハウス(台中国家歌劇院)は、ものすごく苦労して、11年かかってようやく2016年にオープンしたんです。
佐藤:出来上がったことが奇跡だってご自身でおっしゃってましたね。
伊東:その出来る寸前ぐらいから、ちょっと体調崩して入院したりしたこともあって、僕が初期から考えてきた建築って、これでひと区切りついてもいいやと。もうこれからは大三島に行って、この先10年ぐらい島の人と一緒に何か別のことやろうかな、って思ってたんです。 ところが退院して出て来たら、すぐまた例の新国立のスタジアムのコンペティションに巻き込まれて、自分で巻き込まれて行ったのかも知れないんですけど、それでまた昔のような生活に戻っちゃったというのが正直なところですね。
佐藤:その伊東さんが集大成だと思われた台湾のオペラハウスは、一般の人に分かりやすく説明するとどういう感じだったんですか。
伊東:まあ、「これが建築!?」というような、前衛的な建築とも言えるし。一般の人が考えている建築の枠を超えてるというか。建築全体が洞窟みたいなんですよ。サウンドスケープって地元の人は呼んでますけども。作るのもすごく大変だったし、工法も難しい初めての試みでした。そういう「すげぇ」っていうような建築作るの、もうこれでいいんじゃないの、って思ったところもあります。
伊東さんの代表作のひとつとなった台中国家歌劇院

伊東さんの代表作のひとつとなった台中国家歌劇院

佐藤:デザインも、コンセプトも、実際に作ることも、すごく難しくて、ある意味、人類にとって初めての挑戦、みたいな感じだったのでしょうか。
伊東:いや、そこまではないでしょうけど(笑)。もともと「建築と自然」が連続するような関係というのはずっと考えてきたことで、そのオペラハウスも、内と外を連続させるような構造だったんですけれど、でもそれが自分の論理の中だけだったなと思うんです。チューブが上にも外にも開いているみたいな構造体で実現しようとしたのが、そのオペラハウスなんですけれども。

だんだん、もっと本当に空気が外から内へきれいに流れるとか、そういうことでないと、自然と結ばれた建築とは言えないなと考え始めて。特に被災地へ行ったり「みんなの家」を作ったりしたときに、スケールも違うし、昔の日本の民家みたいなところがあるんですけれど、自然に開かれた建築をもう少しやってみたいと思ったんです。台中のオペラハウスのような表現的な建築は、もうこれで終わりでいいかなと。
佐藤:例えば、形とか構造だけじゃなくて、そこに実際に使う人が住んでいることを考えるとか、そういうことですよね。
伊東:そうですね。もちろん新しいチャレンジはこれからも続けたいと思いますが、作り方も利用者と一緒に考えて、一緒に作っていくことが出来ないか、と考えています。それから周りの環境がそのまま内に入って来るような。温度をコントロールしたり、除湿したりはするのですが、でもそこに気持ちのいい風が吹いていくとか、外にいるような居心地の良さを感じられるような。そういう建築が出来ないかと思い始めたんです。少しそこでシフトしてますね。
佐藤:それは、伊東さんがそういうマインドなのか、建築のトップを走ってる方々の傾向なのか、どちらなんでしょうか。
伊東:まあ、建築のトップを走っている人も、僕から言わせれば、ほとんど20世紀的近代主義の建築の延長上ではないでしょうか。それを洗練させていく技術が日本は高いし、日本人の感性からしても、美しくて繊細で20世紀型の自然から切り離されたモダニズムのスタイルを押し進めていくような建築が、いまでも圧倒的に多いと思います。
伊東:それはもう僕は興味がなくて。それよりも、ゴツくてもいいし、美しくなくてもいいから、もっと自然と密接な関係を持つような建築を作りたいと思い始めていて。若い建築家で、何人かそういう考え方を共有してくれる方はいますけれど、圧倒的にまだ少数だと思います。

ブランディングも、
欧米が生んだ概念なんですよね。

佐藤:なるほど。僕はそういうことにすごく興味があるから聞いているんですけど、建築っていう枠組をもっと広く捉えてるということですよね。
伊東:というか、20世紀から、あるいは近代以降、ヨーロッパの思想で建築が考えられていて、それが世界を席巻しているからではないかと思います。
日本も明治以降、近代化を盲目的に取り入れると同時に、建築もそうなってしまっている。僕らが大学で建築を学んだときも、モダニズム一辺倒で、日本の伝統なんてほとんど振り返らない、そういう時代でした。伝統といってもモダニズムの中で表層的にのみ考えるというような、そんな建築で、いまの日本は覆われている。

でも、我々の中にもうすこし別のアジア的な身体性があって、その潜在的な部分をどうやって再発見して表現に変えていけるかが、本当は一番問われるべきことだと思うんです。省エネとかエコロジカルとか、サステイナビリティとか、そういう問題もすべてそれに絡んでいて。そういうテーマに対しても、ヨーロッパの人たちはあくまで近代主義思想に基づいてしか考えてないですね。ドイツなんか典型的で、いかに壁を厚くして、自然から建築を区切って隔絶して、その中で省エネを考えていますから。
そうじゃなくて、逆に壁を薄くして、昔の日本の暮らし方みたいなものにして、それをテクノロジーを使って快適に過ごすような。そういう建築があるんじゃないかと僕は思うのです。
廃校になった小学校の建物をリノベーションしたホテル「大三島憩の家」

廃校になった小学校の建物をリノベーションしたホテル「大三島憩の家」


佐藤:それって、やっぱり自然観の違いですか。
伊東:そうです。おっしゃる通りで。西洋の人は、自然を対象化するというか、自然は征服できる対象だと思っている。
佐藤:そうですね、戦っていますよね。
伊東:日本やアジアの人たちは、自然の中にどっぷりひたっているから。どうやったって自然は敵わないよ、って思っているところがある。
だから東北の震災後の復興計画でも、そういう西欧的な思想で防潮堤を作るのが、僕は耐えられなかった。
もう少し「自然には敵わないんだから」という前提で復興を考えれば、もっとおもしろい、というか日本らしい、新しい考え方の街が実現出来たはずだと思っているんです。
佐藤:そうですね。僕も、ブランディングの仕事をずっとやっているんですが、「ブランディング」ってやっぱり欧米が生んだ概念なんですよね。
ブランド自体もヨーロッパ概念ですし。それをマーケティングの中に組み込んだのはアメリカで、上手くビジネスに使うようになった。僕はキリスト教は、ヨーロッパのブランディングの最も洗練された世界観ではないかと思います。
アイコンがはっきりしていて、教会、絵画、彫刻、要するに建築もアートも、それに音楽も使って、すべての世界観を構築している。キリスト教はそういうものもすごいなあと感じます。

そういう宗教観の違いもあるのかなと。日本って、自然信仰じゃないですか。どこにでも神様がいるみたいな。だからそういうピラミッド型のやり方が、なかなか馴染まないんじゃないでしょうか。
伊東:うん、なるほど。そうですよね。
佐藤:それで、みんな一生懸命、ブランディングブランディングって、それ自体はブランドを作っていこうという意識がないと出来ないから、必要なんですけど。でも、もっと日本人に合ったやり方があるんじゃないかなと思っているんです。それで何となく、いま伊東さんが言っているようなことに近いような、独創型じゃなくて共創型とか。そういう方が日本社会に合っているのかなって。

今治タオルってちょっと僕の中では変わったプロジェクトで、はっきりしたトップの人がいるっていう感じじゃなくて、組合のみなさんとの仕事です。
理事長はいるんですけど、理事長が全部一人で「これだ!」と言っても決まらないというか。一応すべて組合の皆さんの合意としてやっていくから。そういう場合って普通はなかなかマネジメントが難しいものなんですが、でも今治は、わりとそこがうまく行ったかなと思っています。
伊東:なるほど。
佐藤:そういうことをタオルだけじゃなくて、もっと広げていけるといいなと。みんなの力で作っていって、僕はちょっと司会をやってるぐらいな、音頭を取ってるぐらいな感じで。そういう自走するような形の方が、きっと日本には合っているんじゃないのかな、ってずっと考えているんです。

「共創型」の方が
うまくいく社会になってきた。

伊東さんの事務所が設計と監理を手がけた「信毎メディアガーデン」

伊東さんの事務所が設計と監理を手がけた「信毎メディアガーデン」


伊東:そうですね。いま僕らが建築を作るときも、公共の仕事だとほとんどコンペティションというシステムで、自治体から出された条件のもとで僕らが競い合う。それで仮に自分のプロジェクトが選ばれたとしても、それはこちらが勝手に考えた提案で、決定されてから初めて利用者と向かい合うわけですよね。そうすると「ええ? こんなもん作るの?」みたいな話になることがけっこうあって。
それで、震災のときの「みんなの家」は、そこに住んでいる人たちと「こんな小さなものだけれど、もしこれを作るとしたらどんな場所が欲しいの」みたいなことを話しながら作ったんです。同じことが、公共の仕事でも出来るだろうか、と考えてみると、いまの日本社会がまだそういうシステムにはなっていないので、ものすごく難しいんですね。

でも震災後に作った建築では、少しずつ、以前よりは住民の声を聴きながらつくっていくシステムに変わりつつあります。
この間、長野県の松本市で信濃毎日新聞の松本本社ビルがオープンしたのですね。山崎亮(コミュニティデザイナー)さんにも関わってもらいました。
まず住民の人たちに、設計の始まる時点から、「本社ビルの半分以上のスペースを住民に解放します。どんなスペースがいいですか」と希望を聞いたり。内部の記者も、僕らも、一緒に議論をして。佐藤さんがやられた今治タオルと近いやり方ですよね。松本市は文化度の高い街で、元気な人が沢山集まってくれたんです。話し合いを進めていくと、やはり皆さん「俺も参加して造ってるんだ」って気持ちになるようで、普段の公共建築とは違うんですね。そういうやり方は、これから何らかの形で増えて行くし、そうでないともう上手く行かない社会になりつつありますね。
佐藤:なるほど。インターネットが普及したことで、みんなの思っていたことが可視化できるようになったじゃないですか。それがすごく大きかったですよね。
例えば、アフリカやインドなど遠い国の人たちが思っていることって、以前は分からなかったんですけど、それがインターネットでつながって、わかるようになりましたよね。それで、いままでと全く違うデザインの方法論が成立するようになりました。コンセプトだけをボンッて投げ出しても、みんなで創っていけちゃうっていうか。
伊東:そうですね。ある意味、建築が実現する前からみんな作っているような気持ちになっている。工事に入って、その過程でまた修正が加えられて、出来上がってからも作ることを継続していくみたいな気持ちになれる。昔の、設計プロセスとはかなり変わってきていますよね。
佐藤:それはおもしろいですよね。竣工式があってこれでおしまいじゃなくて、ずっといじってアップデートして、っていう方が、本当は自然ですよね。
伊東:逆に言えば、いじりまわせるような建築でなくてはいけないわけで。それはキリスト教的な思考とはかなり違ったもので、日本のかつての普請の現代版とも言えますね。
佐藤:そうですね。ネットを見ていると「あ、みんなこう思ってたんだ」みたいなことが可視化されて、数字で出てきちゃったりする。それによって、じゃあこっち行こうとかいう風にやっていくと、想像もしなかったものになっていったりする。それがすごくおもしろいんです。
伊東:それは本当におもしろい。
佐藤:いまみんなそういうことを求めてるから、ブランディングの仕方や、仕事の仕方や、建築の作り方を変えて行かないと。世の中の方が先に行っちゃったんですよ。
伊東:本当にそうですね。おっしゃる通りだと思います。
今治市伊東豊雄建築ミュージアムから見渡せる島々

今治市伊東豊雄建築ミュージアムから見渡せる島々

後編へ続く

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